『あちらにいる鬼』井上荒野 朝日文庫 2021年第2刷(第1刷2021年)
井上光晴の娘が、父と母、そして愛人・瀬戸内晴美(寂聴)とをモデルに描いたと言われる不思議な小説。光晴との愛人関係を断ち切るために得度したと言われる寂聴、そしてそのまま終生友人関係を続けたと言われます。寂聴と荒野の母親とは雑誌企画で対談もしている。荒野は寂聴に可愛がられ、当作執筆に当たっては「なんでもお聞きなさい」と全面協力したそう。世俗の一般人には図りようのない関係です。小説であるのだからすべて事実と言うわけではないだろう。井上荒野の創作した世界、しかしそのリアル感は、事実のなせる業とも思えます。事実関係は置くとしても、小説としての迫力には重みがあるし問題なく面白かった。寺島しのぶ・広末涼子主演で映画化されています。観に行っても良い。
直前に読んだ作品が寂聴の『京まんだら』でした。晴美時代を含めて、寂聴作品は読んだことありません。それが残念に思えるほどに良くできた作品でした。その寂聴に感じた筆のちから故に、この作品に登場する「長内みはる」にも、現実の寂聴を見出してしまうのかも知れません。久し振りに読み応えのある作品が2作続きました。
しかし井上光晴も、私の読書歴から抜け落ちた存在です。プロレタリア小説に傾倒したことのない私には、主だった作品の題名も浮かびません。最初「井上」と聞いた時も「靖」の方を思い浮かべてしまいました。
『常設展示室』原田マハ 新潮文庫 2021年
記念すべき?原田マハ25冊目。『ジヴェルニーの食卓』で嵌ったマハさん、『楽園のキャンヴァス』や『暗幕のゲルニカ』などの実在の作家を扱った(主人公にした)作品をメインに読み始めたのですが、そっち系既存作をほぼ読み終わった時点でそれ以外にも手を出しています。「それ以外」つまりはラブストーリーだったり、ただマハ作品では純粋のラブストーリーは意外と少ない。ある個人の日常や生い立ちとかを少々ドラマチックに創作した感動系物語。着想や手際が実に上手くて感心させられるのですが、時に「やり過ぎじゃない?」と思われる、都合の良い創作の過ぎることもあります。涙を強要する作り話は好きじゃないのですが、マハ的「ドラマチック」はその際どい境目を突きます。
今回の『常設展示室』は6作の短編からなります。それぞれに著名な作家の作品が登場しますが、その作家・作品が主人公ではありません。「美術系」ではありますが、主題は「ドラマチック系」での短編です。そしてそれぞれがまた、上手く作りやがっています。美術系本格小説を書いて貰いたい私には悔しいほどに。そして極めつけは最後に控える『道』です。
題名を見て即座に「東山魁夷?」と少々うんざりしました。しかしそれは私の早合点、6作中唯一の「著名作家」名の登場しない作品でした。読まされて、全く持って都合の良過ぎる偶然の組み合わせに呆れるのに、少々時間を要しました。ケンシロウではないけれど、切られたことに、都合の良過ぎる作り物「嘘っぱち」を読まされたことに暫く気付かない、とか。マハさんには負けます。騙されたことを快感に思えるほどの嘘っぱち作り物、暴涙の作品でした。認めたくないけど…。
高校生の時、今は亡き恩師に勧められて行きだした美術館常設展、その頃も想い出しました。国立西洋・国立近代・ブリヂストンなど。
『20世紀美術』高階秀爾 ちくま学芸文庫1993年(2018年第15刷)
授業課題図書で読みました。正直って高階秀爾の本をまともに読んだのはこれが2冊目、先に読んだのが『近代絵画史(上)(下)』でこれも今年になってから。有名な美術評論家として、勿論名は知っていましたが読んだのは展覧会図録等での短い評のみでした。読んで初めて、偉い評論家だったのだと知りました。( ´艸`)
「実物にはいっこう感心しない。ところがこの実物が絵になると、人は実物に似ていると言って感心する。世に絵画ほど空しいものはない。」本の中で引用されたフランスの哲学者パスカルの言葉です。勿論パスカルが本心で空しいと思ったと言うより、世間の人の絵画評価への皮肉でしょう。しかし妙に納得してしまいます。
田舎でグループ展などを開催してよく聞く誉め言葉が「わぁすごい!写真みたい!」とのもの。画風的に私の作品に投げ掛けられることは少ないので幸いですが(それでもたまにはアル)、どうにも複雑な気持ちにさせられる言葉です。「写真みたい」が誉め言葉と言うことは「写真>絵画」ということなのか?「似ている」ことが「偉い」のか?言っている方々に悪気はないので尚更対応には困ります。
しかし最近では、それもひとの持つ根源的欲求なのかも?とか思うこともあります。写実主義から印象派、キュビズム、フォービズム、その辺りまでは理解し易い。しかしその先、コンセプチュアルとかミニマル、ランド・アートとか、アポロプリエーションとかになると何が何だか判らなくなります。
新古典主義までは到達目標がはっきりしていました。つまりは、「100m走って10秒を切る」とか、皆同じような価値観で同じような方向に走り競っていたのです。それが20世紀美術では「自由」を勝ち得ました。「自由」「なんでもアリ」、しかし自由は大変、なんでもアリは何もないのと一緒、100m走で「どっちに向かって走ってもイイ」とか言われたら競いようが無くなります。
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