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2018年12月 5日 (水)

最近読んだ本

以前もこの題名で書いていたのでそのまま「最近」としましたが、このタイトルで書くのは丸々3年振りですので「最近」でない本も含まれます。そんな状態ですので読んだきり読んだことも忘れている本もあるかも知れず、”ここ暫くで読んだ本全部”というわけでもなさそう。ま、それそれらしい本を本棚から持ち出し書き始めます。

「ゴルフ超心理学日記」 石ノ森章太郎 清流出版

16年夏の東北旅行で石ノ森漫画館(石巻市)を訪れた時に買った本です。「トキワ荘」仲間を中心とするゴル友とのラウンド交流記です。藤子不二雄丸Ⓐ・さいとうたかお・園山俊二・ちばてつや・松本零士等々の面々がメンバーに名を連ねています。雑誌「GOLFコミック」に連載されていたものの単行本化だそうです。期待したほどの面白さではなかったですね。締め切りに追われて書いた、的な臭いの濃い回もあります。ゴルフ雑誌掲載ですので内容がゴルフに限られてしまったせいもあるのかも。普通に「漫画家仲間との交流エッセイ」とかだったらもっと話題豊富に面白かったのかも知れません。

「日中韓 歴史大論争」 櫻井よしこ 他 文春新書

櫻井よしこ・田久保忠衛(杏林大学名誉教授)が中国の大学教授・研究者との3回に渡る座談会を「日中大論争」、韓国人ジャーナリストとの座談会を「日韓大論争」として、最後に櫻井・田久保両氏に古田博司(筑波大学教授)を加えた3人での座談会を収録したものです。年度は2005年から2010年にかけてです。内容は想像通り、日韓・日中の政治問題論争ですが、あまりに想像通りというか紋切り型とでも言おうか、中韓参加者の主張が一方的で時として非論理的で、逆に日本側主張を際立たせるための”やらせ?”とか思ってしまう場面も。そんな疑問もあり1度読むのを中断してしまいましたが一応最後まで読みました。日中韓それぞれの主張を平等に、客観的論理的に導いた本とは思えませんでした。

「真田太平記」 池波正太郎 新潮文庫

文庫本全12巻の長編です。NHK大河ドラマ「真田丸」開始に合わせて読み始めましたので、読み終えるのに1年半ほどかかっています。歴史物は好きなのですが、池波正太郎は初めてです。感想としては”歴史物”というより”時代劇小説”との趣が。要するに”チャンバラ”的雰囲気があります。主役が幸村というより”お江”という一面のあるせいかも。史実から離れた裏社会・忍者を物語の中心に据えた、そして忍者集団に超人的技量を与え過ぎたせいでリアル感の薄くなってことも理由のひとつでしょう。そして何より、”偶然性”を多発しています。お江の危機がたまたまの大地震で救われたり、秘話が偶然に近くにいた敵方忍びに聞かれてしまったり、都合の良過ぎる展開が多発しています。「鬼平犯科帳」なら許されても、歴史物として読むには不都合を感じました。

「城塞」 司馬遼太郎 新潮文庫

新潮文庫上中下3巻。「真田太平記」↑を読んでいる途中で読み始めてしまいました。大河も放映中です。「真田太平記」でのクライマックス、大阪冬の陣・夏の陣の部分に的を絞った作品です。物語は関ケ原が終わって実質徳川の天下になってからの時代から始まります。さまざまの策を凝らし徐々に追い詰め、最終的に豊臣を滅ぼすまでの家康と、天下人秀吉の栄光が忘れられず破滅して行く淀君と秀頼とが、対比的に描かれます。こちらはさすがの司馬遼太郎、史実とフィクションとを組み合わせた司馬ワールドが重厚に展開されて行きます。同じ時代の同類の物語を並行して読み進めるわけですので、ごっちゃにならないか心配もしたのですが不要でした、描き方がはっきりと異なります。作者の創作部分も多いのでしょうがフィクション性を忘れてしまいます。一般的に知られる秀頼像、そして特に淀君像は、司馬ワールドでの描き方にかなり影響されているように思います。「龍馬が行く」でそれまでさほど有名でなかった坂本龍馬が一躍幕末のヒーローになったように。

「ジヴェルニーの食卓」 原田マハ 集英社文庫

ここ暫くで1番気に入った作品集です。「うつくしい墓」「エトワール」「タンギー爺さん」「ジヴェルニーの食卓」の4作品が収録されています。それぞれ、マティス・ドガ・セザンヌ・モネという近代画家をテーマとした作品です。こちらも司馬作品同様、作者の想像の世界で描かれた人物像ではありますが「さもありなん」というリアル感、本当にそういった人物だっただろうというリアル感に溢れています。作者の、画家に対する”愛”故なのでしょうか?個人的には「うつくしい墓」が1番気に入っています。ピカソとの関係も、何故か納得してしまいます。「エトワール」では、ドガに対するメアリー・カサットの思慕・敬愛入り混じった感情がテーマとなるのでしょう。作品でしか知らなかったカサットが、人として女性として蘇ります。「タンギー爺さん」はセザンヌをテーマとした作品なのですが、物語にセザンヌは登場しません。印象派の画家達を支えた画材屋で画商の”タンギー爺さん”の娘がセザンヌに宛てた手紙、からセザンヌが、そして画材屋に集う画家達の様子・時代が描き出されます。実に巧みな演出です。話題の中に”チューブ入り絵の具”の登場が語られています。印象派の画家達がアトリエから解放され自然光の中に出て行く、後押しにもなった発明です。映画「セザンヌと過ごした時間」の中でもそんな場面が登場しましたね。「ジヴェルニーの食卓」は表題作ですが、モネとその家族とが描かれます。当たり前のことですが、モネもその他の画家達も、単独の画家として存在したわけでは無く、家族や仲間や取り巻きや、社会の中に生きる生活者として存在したことを、今更ながら教えられます。そうやって生きて生活した中から生まれた作品として考えると、今まで見知った作品でも何か愛おしさが加算される気がしてきます。

「フーテンのマハ」 原田マハ 集英社文庫

↑でお気に入りになった原田マハ、早速もう1冊買ってきました。こちらは打って変わったグルメ旅エッセイですが、「美味しいもの紹介」とは一味違った、”グルメ道中膝栗毛”的な珍道中旅エッセイです。後半にはジヴェルニーやパリやエクス・アン・プロバンスも登場して、アート面での欲求にも答えてくれます。気楽に読めて楽しい気分にさせてくれる1冊でした。マハ作品は「モダン」と「キネマの神様」が控えています。どっちを先に読もうか?「暗幕のゲルニカ」も気になるし「たゆたえども沈まず」も読みたい、暫くは原田マハから離れられない気がしています。

「純喫茶」 姫野カオルコ PHP文芸文庫

大学の5歳下の後輩、ったって同じ大学を出たというだけで縁もゆかりもない、のだけれど母校愛が強い?ので読んでみた「終業式」が面白かったので買った本。当初の題名は「ちがうもん」とかだったとか。やたら”改題”の多い作家さんです。「終業式」も最初は「ラブレター」という題名だったらしい。純喫茶が普通にあった時代、を描いた、ということだろうか?”記憶”がテーマなのだろうか、心の片隅に残る”想い”を探す旅とか。よく判らない部分もあるのですが、意味のあるのか無いのか、何かしら意味ありげに脳裏に残ってしまう風景ってありますよね。別段そこに行きたいその時代の戻りたい、というわけではなく、また特段に大事件でもないのに「なんでそこ?」的な引っかかり処。でもひとって、そんな引っかかり処の積み重ねで出来上がってるんですよね。

「1998年の宇多田ヒカル」 宇野維正 新潮新書

1998年は「CDの最も売れた年」なんだそうです。つまりはそれ以降は降下の一途ということ。ダウンロードとかはどうも不安というか、やはり実在の”形”で持ちたい、時代に取り残された人ですので未だにちゃんとCDで買ってます、私は。そして林檎さんのファン。先日のライブも行きました。この1998年は、宇多田ヒカル・椎名林檎・aiko、そして浜崎あゆみのデビューの年だそうです。デビュー直後から売れた宇多田の登場は衝撃的でした。その点林檎嬢は徐々売れでしたから”同期”という感覚があまりしません。東芝EMIガールズとして仲は良いようですが。デビュー20年、aikoはあまり聴かないので判らないのですが、宇多田・椎名のお2人は、結婚(林檎嬢は出産も)・離婚を経ていまだにご活躍、年を経て多少の色合いは変えています。AKBとジャニーズだらけで音が使い捨てされて行く時代、お2人には末永く頑張って欲しい。

「絵のある自伝」 安野光雅 文春文庫

画家・絵本作家、安野光雅のエッセイ。「自伝」とある通り、子供の頃のこと、戦時中・戦後、時代を追って自身や家族・友人知人、周囲の出来事を淡々と思い綴っています。もちろん挿絵付きで。範疇外なので安野氏の絵が良いのかどうかは判りません。ただ時折、こんなふうに描けたら良いというか便利だなぁという気持ちになることはあります。しかしそう描こうと思うことはほとんどありません。好きな画家尊敬する画家ではないということ、それでも確立した形というか、魅力は備えていると思います。また氏の書く文章の優しさには非常に似合った絵ではあると思っています。今年亡くなられたように思っていたのですが、検索しても死亡情報が出てきません。私の勘違いで今でもご健在なのでしょうか?

「応仁の乱」 呉座勇一 中公新書

「戦国時代を生んだ大乱」との副題が付けられています。歴史物新書としては異例のヒットとして話題に上った本です。確かに、誰でも知ってはいるけれど内容は知らない、有名で無名な歴史上の出来事です。学術的新書本としてはかなり判り易く読み易く書かれていると思います。それでも、「なるほど」と判った気になってもすぐ忘れてしまいます。知識が記憶の中に定着しません。お家騒動が多いので敵も味方も同姓(畠山義就・政長、斯波義敏・義廉、等)だし、敵味方が突然入れ替わったり、収まったと思ったらまた同じような戦が再発したり、メリハリなくだらだらと続く印象があり明確な形が見えてきません。東軍西軍とは言っても関ケ原のような”天下分け目の”大戦はないし・・・。その場その場では理解しても、後になるとそれが何処の出来事だったかごっちゃになって混乱します。結局は「よく判らない時代」を再確認したのが一番の収穫?かも。ただつまらなくはなかったです。売れただけのことはあるような。

「マンガ 応仁の乱」 小野田哲男監修 宝島社

新書版の副読本としては役に立ったかも。漫画部分は確かに判り易いけれど結局漫画って描ける部分が限定的です。深い表現はやはり無理。導入部だけですね。この本も「マンガ」とはうたっていますが、ちゃんと文章での説明も付けられています。その文章が意外と判り易い。また、↑中央新書では日を追って事の成り行きを書いていますが、マンガ本では主な登場人物を抜き出しそれぞれの人物の行動を書いています。謂わば縦線と横線、両方読むと繋がりがかなり判り易くなります。簡略化しての概略だけですが、基本線は新書版と同じ方向で書かれているように思いました。

「激闘 海軍航空隊」 碇義朗 光人社NF文庫

これまでとはかなり趣の変わった分野です。ネトウヨでも戦記オタクでもないのですが、父の残した蔵書を読み始めています。父は昨年、89歳で世を去りました。亡くなる前日まではっきりとした意識を持っての死でした。戦時中に青春を送り、予科練から海軍飛行兵として終戦を迎えた父は、軍歌と唱歌しか歌えませんでした。予科練・海軍航空隊時代での話題は、親子の間で出ることはほとんどありませんでした。1度映画「トラ・トラ・トラ」を見に連れて行って貰ったことがありました。その映画に登場する少年兵は、今考えると当時の父の年齢に近かったはずです。映画「男たちの大和」は1人で見に行って号泣していたとも聞きました。戦争映画も小説も、おそらく、私とは全く異なる感慨を持って読んでいるのでしょう。亡くなってしまった今、もう少し父と話をしておけばと、後悔しています。

「江田島教育」 豊田穣 集英社文庫

同じく父の本棚から。海軍兵学校出身の作者による、江田島海軍兵学校での訓練の日々を描いた作品です。そういう時代だった、という他感想の述べようがありません。作者にとってはそれ以外に存在しない彼の青春時代です。軍国教育云々以前の問題なのでしょう。

「落日燃ゆ」 城山三郎 新潮文庫

同上ですが、さすが作家としても名の売れている作者です。父蔵書でなければ手にすることはなかった作品でしょうが、上記2作品とは異なりしっかり成り立っている読み応えある作品です。それもそのはず、吉川英治文学賞を受賞した作品だったのですね。極東裁判での、文官として唯一人処刑された広田弘毅、元首相・外相を扱った物語です。大陸での関東軍の暴走から始まった日中戦争・太平洋戦争、その中で軍部との確執・圧迫の中戦争回避への道を探りながら遂に果たせず、極東軍事裁判ではその努力も認められず刑場に消えた外交官、その姿を真摯に描いています。そういった人物の存在した事すら知りませんでした。「長州の作った憲法が日本を滅ぼす」との考え方も初めて知りました。「指揮官たちの特攻」執筆時には確か父は、戦友何人かとで城山氏との取材を兼ねた懇談会に参加しています。

相変わらず複数の本を併読しています。「ローマ人の物語 塩野七海」は文庫本全43巻の内ようやく24巻まできました。五賢帝の時代です。しかしカエサルの時代は面白かったですね。文庫本では合計6巻を費やしています。作者の”カエサル愛”を感じます。それだけ魅力ある人物だったことも窺えます。多数の愛人を抱え、その誰もからも恨まれなかったとは本当なのか?そこが1番凄いかも。(笑) 他に「ふらんす物語 永井荷風」「浮世の画家 カズオ・イシグロ」「観応の擾乱 亀田俊和」、そして「ローマ人の物語 24巻」です。珍しく歴史小説を読んでいません。何か読み始めちゃうかも。原田マハに三国志関連、芥川賞受賞作等々、待機中多数。

2018年3月19日 (月)

「セザンヌと過ごした時間」「ジャコメッティ 最後の肖像」

最近観てきた作品です。芸術家テーマの映画2点。「セザンヌと過ごした時間」は、フランスの画家ポール・セザンヌと「居酒屋」「ナナ」で知られた作家エミール・ゾラとの交遊と破断を描いたストーリーです。原田マハの小説「ジヴェルニーの食卓」に収められた4作の中の「タンギー爺さん」の中でも描かれていますが、セザンヌとゴヤとはエクス・アン・プロバンスの中学校で知り合い親友として交流を続けました。もっとも原田マハの小説ではセザンヌ本人は一切登場せず、タンギー爺さんの娘が語る形で描かれています。原田マハの小説もお勧めで、「タンギー爺さん」の他にドガを描いた「エトワール」、マティスを主人公とした「うつくしい墓」、マネを描いた「ジヴェルニーの食卓」が収められています。

映画に話を戻します。エクス・アン・プロバンスの中学校に、イタリア人移民の子(母親はフランス人)として転校してきていじめられる下級生ゾラを、セザンヌが庇って喧嘩するシーンが知り合った最初です。ゾラはその礼に林檎を持ってセザンヌ宅を訪れます。成長したゾラはパリに上り作家としての成功を目指します。ゾラの勧めもあって画家を目指したセザンヌもゾラの後を追って上京します。「テレーズ・ラカン」で小説家としての足場を固めたゾラは、その後「居酒屋」での爆発的ヒットで流行作家としての地位を確立しますが、反してセザンヌはサロンでの落選を続けます。成功者ゾラと一向に芽の出ないセザンヌとの関係は徐々に齟齬をきたし、セザンヌをモデルとした小説「制作(「作品」とも)で決定的に破綻します。(この絶交には他の説(女性関係)もあります)

画家などの芸術家には”貧しい”というイメージが一般的に感じられますが、セザンヌは裕福な銀行家の息子でした。親の意に反して画家を目指したことでパリでは窮乏の日々を過ごしましたが、父親の死後に遺産を相続しています。裕福な家に生まれながら粗雑で人間関係を築くことの下手なセザンヌ、貧しい移民の子に生まれながら成功して紳士然となるゾラ、その対比も映画の主題なのかも知れません。

映画をちょっと離れて印象派成立当時のパリ画壇、芸術の変遷に関して少し書かせてください。通常は芸術分野での進化・変遷としてしか描かれませんが、芸術も社会情勢の流れの中で変遷します。決して世間から独立した存在ではありません。現代では当たり前にある「美術館」も、その成立はフランス革命後です。それ以前、芸術は王侯貴族の専売特許であり、レンブラントやベラスケス等現代人に知られた有名作家も、当時の一般庶民には全く縁のない存在、その作品を一生涯目にする機会はなかったのです。一般人が芸術作品を観ることのできる、唯一の例外は”教会”でした。多くの絵画作品は王侯貴族が自身の宮殿・邸宅等に飾るために職人としての画家に”発注”し買い取るもの、その館を訪れる客人しか目にすることはできません。ですので画題も神話や王侯貴族の肖像画が主体となります。画家が自由に画題を選べる時代ではありませんでした。レンブラントの代表作「夜警」は、注文者が記念写真的目的で依頼したため、「鮮明に描かれていない人物が居る」との理由で受け取りを拒否されています。

美術館の始まりはフランス革命での王家断絶、宮殿開放です。美術品の宝庫ルーブル宮が一般に開放され、一般庶民が初めて芸術作品を目にしたのです。ゴヤの「居酒屋」の中でも、物見遊山でルーブルを訪れるシーンが描かれています。フランス革命、英国の産業革命後に自由経済の中で生まれた中産階級は、それまでの一般庶民と比べ経済的余裕も持つようになり、自身のリビングを飾る絵画に関心を持つようになりました。そして生まれたのが画商・画廊です。そして作品提供者としての”画家”、今までのような宮廷・貴族お抱えの絵師ではない現在の感覚に近い”画家”が生まれます。画題も自由に幅広くなり、写真機の登場により記念撮影的役割からも解放されます。

映画の中に、特に美術に知識・関心を持った方でないと見逃してしまうシーンがありました。印象派の画家たちを援助していた画材屋:タンギー爺さんがセザンヌに「野外用の絵の具」として渡した油絵具です。このシーンも重要なのです。それまでは金属製の注射器のような機材に絵の具を詰め、無くなると中を掃除して画材屋で再び充填して貰ったのです。手間のかかる作業でした。それがチューブ式絵の具の発明で補充・持ち運びが簡単になり、野外での制作に便利になりました。直射日光を避けて北向きの天窓を持つアトリエで描いた中世から、野外の光の中で描いた印象派への移行、単に芸術史的内部変化ではなく、こういった道具の開発も大きく影響しています。チューブ式絵の具を「当たり前」として見ている現代人には気付き難いシーンですね。

セザンヌの代表作に、故郷エクス・アン・プロバンスのサント・ヴィクトワール山を描いた作品が多くありますが、映画に登場する実際の映像よりもセザンヌ作品の方がずっと美しい!もしかするとそれも監督の意図だったのかも?新婚旅行でニースまでは行ったのですがプロバンスまでは行けませんでした。2020年の結婚40周年に海外旅行を思い描いています。今1番の候補はポルトガルなのですが、「プロバンスもイイナ」と迷ってしまいそうです。

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もう1作は彫刻家として有名なジャコメッティを描いた作品です。こちらはセザンヌと異なり、成功して財を成した最晩年のジャコメッティが登場します。尊敬するジャコメッティにモデルを依頼され、「2、3日、長くはかからない」との言葉を信じて嬉々として引き受けたアメリカ人作家・芸術評論家を主人公・語り手とした作品です。実在の人物で、彼の書いた回顧録が元となって作られた映画だそうです。

モデル初日の「肖像画とは決して完成しないものだ」との不吉な言葉通り、2日で済むはずの肖像画は一向に進展しません。突然アトリエに現れる愛人、ジャコメッティと妻との諍いの中で翻弄されるアメリカ人作家は、連日帰国航空便の予約を取り消し・変更を繰り返しながらモデル苦行に耐えますが、完成間近と思える頃にジャコメッティは画面を消しての描き直しを繰り返し一向に完成しません。画家の苦難の半生を描くことの多い芸術家主人公映画ですが、この「最後の肖像画」はその点では異彩です。3週間弱の短い期間に短縮され濃縮された画家(彫刻家)の素顔を、興味深く描いています。ユーモアも交え愉快ですしジャコメッティも納得できるリアル観で描かれています。この肖像画を描いた2年後にジャコメッティは亡くなっています。文字通り(完成した)「最後の肖像画」となったわけです。

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流行りなのか?芸術家主人公映画が大流行り、この後ゴッホ、ゴーギャンが続きます。異才の画家ヒエロニムス・ボスの映画も公開されます。どれもやはり、私の地元には来ません。「セザンヌ~」は宇都宮、「ジェコメッティ~」は高崎まで遠征しての映画鑑賞でした。

2016年5月13日 (金)

「愛しき人生のつくりかた」

地元足利市に待望の映画館ができましたが、マイナー映画好きの私には観たい作品が少なく、やっぱり隣県高崎市通いは止まりません。今回はフランス映画、前回はイギリス映画、その前は中国、韓国映画でした。いずれも、足利でも隣接の太田市・佐野市のシネコンでも上映の無かった作品です。シネコンというものは、どうして近場で同じ作品(ハリウッド大作、アイドル主演作品等)ばかりを上映するのでしょう。若者はどうせ映画館に足を運びません。作品選択ではもう少し知恵を絞って貰いたいものです。

で、今回の作品は「愛しき人生のつくりかた」という題名でした。原題は「les souvenirs」、英語的には「土産物」です。フランス語でも同様の意味もあるようですが、この作品では「思い出」との意味で付けられたようです。http://itoshikijinsei.com/

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映画は、墓地での埋葬のシーンから始まります。夫に先立たれた老婦人とその孫の青年を中心に、親子三世代の日常生活と老いの現実を時にシリアスにまたコミカルに描いた作品でした。ひとり暮らしになった老母を心配しながらも同居には二の足を踏む3人の息子たち、定年を機に妻との関係がギクシャクしだした長男、日本とも共通する現実問題にも深刻になり過ぎない切り口で立ち入ります。祖母に寄り添う孫の存在がストーリーに優しさと安心感を添えています。突拍子もない事件も、隠された意外な過去もなく、普通に暮らす普通の人の人生が温かみを持って描かれます。いつから日本では、こういった映画が作られなく、また上映されなくなってしまったのか? 漫画原作やハリウッド特撮大作に頼り過ぎる、日本の制作側の怠慢や安易な功利主義もあるのでしょうが、最終的には観客の映画作品への望み、刹那な刺激ばかりを追い求める傾向が原因のように思えます。

高崎のこの映画館には、月に1回弱程度の頻度で訪れています。ここ最近での日本映画最高の出来!と思った「百円の恋」もこの映画館で観ました。話題大作ばかりが選ばれる”日本アカデミー賞”でも主演女優賞を得ています。さすがに無視できなかったのか、映画界にも良識が残っているということなのか、しかし受賞はしてもさほど話題にはならなかった気がします。勿体ない。高崎のこの映画館を訪れると、予告編やパンフレットで”観たい作品”がてんこ盛りになってしまいます。しかしそうそう高崎まで行ってられません。シニア割引で千円で観られるにしても、高速代が往復プラスされてしまいます。今回の作品も以前訪れた時の予告編で興味を惹かれました。

予告編で興味を惹かれた1番は、映画の舞台になったフランスの街”エトルタ”でした。印象深い景色の場所です。最初に知ったのはモーリス・ルブラン作「奇巌城」のモデルとしてでした。アルセーヌ・ルパン主人公の探偵小説ですね。ルパンに嵌ったのは小学生高学年時代でした。子供向けに易しくした小説だったのでしょうが、小学校の図書館にあったルブラン作品は全部読みました。中学生時代の初めには、一般向けのルパン作品、ホームズ作品、そしてエラリー・クイーンやアガサ・クリスティを読んでいました。その”奇巌城”印象で1981年の新婚旅行でもノルマンディーも行き先の候補に考えていたのですが、結局はノルマンディーは南部外れのモン・サン=ミシェルのみ、北フランスはサン・マロなどブルターシュ地方をメインに巡ることになりました。ちなみにその新婚旅行、リュック担いで「その日の宿はその日に探す」旅でした。前日にフランス地図を眺めて次の行き先を決めます。エトルタを訪れなかったのは心残りではありましたが、ブルターニュももちろん印象深い地域でした。下写真は左からエトルタ、モン・サン=ミシュル、サン・マロです。アナログ時代ですので新婚旅行での写真を探すのは大変、いずれも借りものです。

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2015年12月27日 (日)

最近読んだ本

2015年も残り数日となりました。ゴルフは相変わらずの不調、年内に1回はスキーに行こうと思っていたのですが雪は降らず・・・。年賀状の準備もできていません。

「半島へ、ふたたび」 蓮池 薫著 新潮文庫  拉致事件での生還者、蓮池氏の韓国訪問記です。この作品で新潮ドキュメント賞を受賞しています。蓮池氏の作品は、韓国人作家・金薫氏の著作の翻訳本「孤将」を以前読んでいます。今回の訪問記ではその金薫氏を始めとする3人の韓国人作家と会い語らっています。韓国では作家の社会的地位が必ずしも高くない、との現状も書かれていました。ソウルの街中観光の様子も描かれていますが、私も訪れたことのある西大門刑務所や戦争記念館等、一般の観光客とはやはり訪問先の選択肢は異なっています。冒頭、飛行機から見た景色に北朝鮮を思い出し、恐怖と絶望の24年間が蘇る”トラウマ”から始まる文面には、通常ではあり得ない体験を強制された氏の緊張感を感じます。韓国訪問記ではありますが、途中ところどころに北朝鮮拉致時の出来事や当時の心境が記されています。感情的にならずに淡々と書かれていますが、それが却って不条理な拉致の残酷さを描き出しています。作品後半では、拉致からの帰国後「孤将」の翻訳を手掛ける切欠や経緯も描かれ興味深いです。

「きいろいゾウ」 西 加奈子著 小学館文庫  椎名林檎繋がりで読みだした作者の2作目です。宮崎あおい主演での映画も観ましたが、雰囲気だけで主題が分かりませんでした。原作を読んで、多少理解できた部分もあるとは思うのですが、まだしっくり来ません。「さくら」もそうでしたが、”作られたお話し”感が強く、実生活でのリアル感がありません。何かが表現されていることは判るのですが、何のためにそれを書くのか、その必然性が掴めないのです。原則文庫本でしか読みませんので、直木賞受賞の話題作「サラバ!」が文庫にでもなったら読んでみたいと思います。

「三国志」 宮城谷昌光著 文春文庫  文藝春秋にて12年間に渡り連載された大作です。文庫本発刊も2008年から7年かかりました。私が第1巻を買ったのが2010年ですので、読破に5年を要しています。発刊を待って読み続けましたので結構間隔が空いてしまっています。新刊の出る度に前の巻の最後を読み返し話の流れを確認する必要がありました。長編ですし、時間をかけ過ぎて忘れてしまっている部分も多いと思います。もう1度読み返しても良いかも知れません。その価値のある作品だと思います。  三国志、劉備・関羽・張飛3人の出会い、”桃園の誓い”から始まり五丈原での孔明の死をもって終わるのが三国志の定番ですが、宮城谷版では楊震のエピソードから始まります。「天知る。地知る。我知る。子(なんじ)知る。」の「四知」は、漠然と「聞いたことはあるかな?」程度でしたが、この作品で内容を知りました。また強く印象に残るエピソードでした。作品全体を通しての主題の一つなのかも知れません。  宮城谷三国志には、膨大な数の人物が登場します。楊震に関してもその父楊宝から始まります。楊震の人物像を描くのに、その父親の生き様も描く必要があると感じたのでしょう。ストーリーの大筋にあまり影響しないような人物でも、経歴や血筋等にまで及んで描かれる場合もあります。宮城谷作品に慣れない人では、面倒に感じるかも知れません。しかしそれが、大河としてのダイナミズムを形成しているのだと思います。ビルの高層階から眺める街の灯、その灯り一つ一つに生活があり人生がある、そう考えると切なくも愛おしくもなりますが、大きな歴史の流れも、その時代を生きた人達の人生の集合体として成り立つと考えればまた感慨もひとしおです。北方健三の「史記 武帝紀」のように特定個人に感情移入はしません。資料的に客観的に無感情に書き綴っているようにも見えます。しかし不思議に、その人の生き様が見えてくるように感じます。昔「アンナ・カレーニナ」を読んだ時、数多くの登場人物の一人一人の人生を描き、その人生の集合体としての”世界”を描く手法に感心した覚えがあります。当時は日本的私小説を中心に読んでいましたので尚更鮮烈でした。もちろん、全く別物ではありますが、宮城谷三国志にもその”世界”があると感じたのです。宮城谷作品は数多く読みましたが、その中でも秀でた作品だと感じました。

「北条綱成」 江宮隆之著 PHP文庫  「関東北条氏最強の猛将」との副題が付いています。北条氏綱・氏康二代に仕えた武将の一生を描いた歴史小説です。あまり知名度のない武将ですので、それだけ作者の想像力を生かせる題材でもあったのでしょう。宮城谷三国志と並行して読んでいましたの、作品の軽重が際立ってしまいました。宮城谷作品の淡々とした大きさもなく、北方作品の熱い血潮も感じられない、ただあらすじを追うだけの展開になってしまいました。決してつまらなくはないのですが、主人公の生き様が”生きて”見えてこないのです。若年での初陣と最後と、重ねた歳の重さが見えません。  著者紹介で「白磁の人」の原作者であることを知りました。小説は読んでいませんが、映画作品は観ました。同じ歴史ものでも戦国と近代とは異なります。

塩野七生の「ローマ人の物語」は文庫本43巻の内ようやく10巻まで来ました。ユリウス・カエサルの章ですので、一番面白い場面なのだと思います。その9巻の中で、カエサルの「ガリア戦記」に関して、「二千年後でさえ文庫本で版を重ねるという、物書きの夢まで実現した男でもあった。」との文章がありました。考えてみればその通り、すごいことです。高校時代に読んだ「ガリア戦記」を探してみたのですが見つかりませんでした。新たに買って読もうと思ったのですが、書店では見つかりません。もう、読む人は少ないのでしょうか。

2015年4月10日 (金)

最近読んだ本

歯医者の治療椅子の正面が大きな窓になっていて、通りを挟んだ向かいに立つ、寺院の大銀杏が目に付きます。前回の治療の時は枯れ枝だけでした。今日は新芽の緑が目立ちます。茶褐色の中に点々としているせいか、葉盛り時期よりも一層緑が艶やかに感じられます。黄葉鮮やかだった景色も、つい最近見たばかりだったようにも思えます。今年ももう、三分の一が過ぎ去っています。しかしこの歯医者、治療室に呼ばれてから実際に治療の始まるまでが長く待たされます。待合室で待つのなら、本を読んで待てるのに・・・。

「信玄戦旗」 松本清張著 角川文庫  来年のNHK大河は「真田丸」、「花燃ゆ」もまだ序盤なのに早くも書店には真田関連の本が並んでいます。しかしこういった大河便乗物はイマイチ信用なりません。読むならやっぱり定番物かなぁ~。取り敢えず、自宅本棚から関連本を選び出して読んでみました。S62年の作だそうです。1度読んだはずですが、読み始めても全く記憶が甦りません。武田信玄を描いた小説と言えば井上靖の「風林火山」を思い出します。夢中になって一気に読み切った作品です。(それほど長くもないし) 一時は実在しないとまで言われ、最近でも1部卒にしか過ぎなかったと言われる山本勘助を信玄の軍師として描いた作品です。  さて話を戻して「信玄戦旗」です。井上作品とも他の歴史小説家の作品とも異なります。少なくとも”軍記物”ではありません。清張らしい「時代分析」的な作品です。信玄の置かれた時代背景を詳しく説明した後にお話が始まります。山本勘助に関しても、「甲陽軍鑑」での信憑性への疑いを列記した後に、「描写がいきいきとしてくる」との理由で「援用する」「遠慮なしに山本勘助に働いてもらう」と書かれています。そう書かれては「嘘だけど楽しんでください」と言われているみたいでどうも乗り切れません。司馬遼太郎にしても北方謙三にしても、史実をそのままに書いているわけではありません。史実を下敷きにしたフィクション、それが歴史小説だと思います。その意味では「信玄戦旗」は歴史小説とは別物なのかも知れません。言ってみれば「歴史発見!」的な解説本と考えた方が良いかも知れません。「甲斐の国」の「甲斐」は「峡(かい)」に由来するとか、知識は豊富に散りばめられていますが、時代を生きた武将の息遣いは感じられません。

「クォン・デ -もう一人のラストエンペラー」 森 達也著 角川文庫  「ベトナムの王子は東京の片隅で息絶えた」との帯宣伝に興味を惹かれて買いました。フランス植民地時代のベトナムグェン王朝の王子、クォン・デの物語です。仏印総督府の統治するベトナム、圧政からの独立を目指す革命家ファン・ボイ・チャウは、近代化を進め日露戦争に勝利した日本を、欧米列強に抗するアジア希望の星として憧れの眼差しで見つめました。そして日本に習い、日本に援助を求めて独立を果たすべく、党首として擁立した若き王族クォン・デを日本へ送り込みます。しかし彼らの夢見た日本は実在しませんでした。日本は、自ら圧政者として、欧米列強の一員になろうとしていただけだったのです。日本に失望したファン・ボイ・チャウは道半ばに倒れ、日本に残されたクォン・デは、故国に戻ることも許されず戦後の1951年に東京で亡くなりました。米軍の撤退で統一されたベトナム社会主義共和国においては、ファン・ボイ・チャウの名は”革命家”として残されたものの、クォン・デの名は消し去られてしまったそうです。日本ではもちろんですが、ベトナムでも、現在ではその名を知る人も少なくなっているとか。読み物としての盛り上がりはいまひとつですが、アジアのそして当時の日本の立場・行動を知る上では興味深い本ではあると思います。

「シュリーマン旅行記 清国・日本」 ハインリッヒ・シュリーマン著 石井和子訳 講談社学術文庫  イザベラ・バードの日本紀行を読んで以来、外国人の書いたまた別の日本紀行文を読みたいと思っていました。そんな中見つけた本です。著者も”あの”シュリーマンとあっては興味も膨らみます。トロイ発掘の6年前、これが処女作だったそうです。訪問時期は大政奉還の2年前、まだ徳川時代です。明治初めに訪れたバード女氏とは時代も異なりますが、直前に清国を経ている著者の、「清潔」「賄賂を受け取らない」との描写は一致しています。文化・工芸に関してはこそばゆいほどに賛美する一面もあり、シュリーマン訪問時には一段落、鎮静化しつつあったヒュースケン暗殺を始めとする攘夷の嵐の傷跡も記されています。ひと月余りの滞在ですので、意味不明の記述や誤解?と思われる文面も見受けられます。以前「百聞は一見に如かず」のことわざに関して書いたことがありました。簡略に言えば、「”一見”は事実ではあっても、”その場だけの事実(例外)”である可能性もある」とのことです。また、事前の知識なしでは、見たことの意味を誤解してしまう場合も有り得るでしょう。シュリーマンの日本紀行も、そのすべてが正しく理解されたかどうかは判りません。それでも、大名行列や庶民風俗等、興味深く描写されています。また、先のベトナムや清国・インドなどと比べ、何故日本だけが植民地化されなかったのか、その要因の一端も垣間見えたような気がしました。

いつものように、数冊の本を併読しています。長らく読み続いているのが宮城谷版「三国志」、文庫本の発売を待って読み進んでいるので休み休みです。明日(もう今日になってしまいましたが)10日に、完結の12巻目が発売になります。11巻の最後の方を確認しないと話が繋がらないかも知れません。随分中休みが長くなりました。塩野七生の「ローマ人の物語」はやっと文庫本の8巻、まだまだ先は長いです。ようやくカエサルの時代に入りかけています。西加奈子の「黄色いゾウ」も読み始めています。シュリーマンが終わって、また別の小説も読み始めてしまいました。

2015年3月 5日 (木)

最近読んだ本

「李陵・山月記」 中島 敦著 新潮文庫  北方謙三の「史記 武帝記」、作者の著作時に頭にあった作品とのことで、読み返してみたくなりました。本棚を探したのですがその時は見つからず、結局また買ってきてしまいました。文庫初版が昭和44年、”82刷”になっています。長く読み継がれている本です。山月記・名人伝・弟子・李陵の4作品が収められています。一番印象に残っていたのは「山月記」ですね。「李陵」は予想外に憶えていませんでした。特に、蘇武に関しても書かれていた事、すっかり忘れていました。主人公の一人として描かれている北方作品と異なり、「李陵」では主人公の内面を描くための題材として使われているせいかも知れません。4作品全206ページの内、”注解”に51ページを投じています。明治期に生まれ、漢学者の家系(祖父が漢学者、父親は漢文教師)に生まれた作者ですので、注解なしには判らない言葉も多く登場します。暫くこういった作品から離れていましたので最初は読み辛く感じました。これからの若者には読まれない作品かも知れません。漢文を和訳したような重々しさのある作品ですが、北方・司馬作品にあるような、歴史”小説”としての躍動感はありません。反面純文作品的な趣は感じます。

「さくら」 西加奈子著 小学館文庫  TV対談番組で、椎名林檎嬢たっての希望で実現したとの対談のお相手が作家・西加奈子氏でした。それまでは名前も知らなかった作家さんです。林檎ファンとしてはとても興味深かった対談でしたので、西加奈子氏の作品も読んでみようと思いました。本屋で題名だけで選んだのが「さくら」でした。初期の作品だったようですね。作品は、ある一家の概して幸福な日常から始まります。文体は全く違うと思うのですが、何処かに、昔夢中になった庄司薫の匂いを感じました。 幸福で平凡な日常を描きながら、時折先行きの不幸を予言するような文言を差し入れます。そしてある日突然に、逃れようのない圧倒的な不幸が訪れます。そして読む側を不安に陥れます。読み続ける事が怖くなりますが、そのくせ先を知りたい焦りも醸し出します。どう考えても幸福な結末は考えられない、作為的な奇跡は作品を嘘臭くするだけですし。そしてその奇跡は訪れたのかどうか?奇跡なのかも知れませんし、何もなかったのかも知れません。ただ不思議と安心はさせて貰えたのかも知れません。解決しようもない問題を丸く解決せずに終えた作品ですが、それだけに嘘は書かれていないように感じました。   西加奈子原作の映画化「きいろいゾウ」も観てきました。何かしらの魅力はあるようですが、何かよく判らない作品でした。原作を読めば判るのか?と文庫本を買ってきましたがまだ読んでいません。

「ロードス島攻防記」 塩野七生著 新潮文庫   「コンスタンティノープルの陥落」に続く三部作の2作目です。「レパントの海戦」は最初に読んでいますので、これで完結になります。 オスマントルコの攻略を受ける直前にロードス島騎士団に配属された若き騎士、アントニオ・デル・カレットの戦いを描いた作品ですが、騎士団の歴史に遡り、攻防戦の始まるまでの経緯にも多くのページが割かれています。それが塩野作品の魅力でもあると思うのですが、時代の成り立ち・流れを丁寧に分析し描き、その中で生きる個人として登場人物を生きさせます。時代に流されるわけではないのですが、時代から離れて生きる事もできない、個人の生きる力を否定する事なく、しかし大きな時代の流れの渦に巻き込まれる人の無力さも描く、そんな難事を気負わず描き続ける作者です。 イスラム世界とキリスト教世界との対立の時代、その時代を区切る大きな節目が三部作として描かれているわけですが、近頃のIS(イスラム国)での騒ぎと比べると、以前読んだ「イスタンブールー世界の都市物語(陳瞬臣)」も含め、イスラム側の寛容さを随所に感じます。イスラム教の原点とISとはやはり全くの別物なのだと、改めて認識しました。

同じ作者の大作「ローマ人の物語」も読み続けています。文庫本で現在7巻まで進みました。全43巻ですので、先は果てしなく遠いです・・・。その中で印象に残る文面がありました。「理(ことわり)を理解する人が常にマイノリティである人間社会~」 民主主義は多数決ですが、多数が常に正しいとは限りません。ヒトラーもムッソリーニも民主制による選挙で選ばれました。日本の軍政も、東条英機が独裁者として作り出したわけではありません。発端は無知な民衆のヒステリックな”偏愛国”とそれを煽ったマスコミだったと考えています。決して済んでしまった過去の話とばかりは言えない気がします。

「尼子経久」 中村整史朗著 PHP文庫   本棚に眠っていた本です。戦国初期に中国地方に覇を唱え、最後は毛利に滅ぼされた尼子家の剛勇・経久を描いた作品です。一応まともな歴史小説ではありますが、司馬作品のような重厚な歴史物語でも、先ごろ亡くなられた火坂作品のような、多少史実から離れても小説として盛り上がる展開でもない、箇条書きの史実に肉付けしただけのような部分も感じられる小説です。経久の人物像も、パターン化された戦国武将としてしか受け取れません。ふと出版年を確認したところ、1997年でした。はは~んなるほどです。1997年はNHK大河で「毛利元就」の放送された年です。大河ドラマが作られると例年、人気便乗でそれに関係した書籍が出版されます。これもそのひとつなのでしょう。大河の参考資料としてはよいかも知れませんが、独立した歴史小説としては、いささか魅力に欠けます。

2014年12月16日 (火)

最近読んだ本

「関ヶ原」 司馬遼太郎著 新潮文庫全3巻  NHK大河を切っ掛けに読み返した「播磨灘物語」、その流れでこちらも再読です。本を買ったのが平成元年ですので、20数年振りの再読になります。読み返してみると、記憶の中の物語と多少異なる部分もあります。どうやら、1981年のTBS製作のドラマと混同してしまっていた部分もあったようです。ドラマでは主人公を持ち上げて描きますので、加藤剛演じる三成は堂々とした”不運の武将”でしたが、(ドラマ原作でもある)司馬遼太郎の小説ではその欠点も描かれています。義を重んじ明察な頭脳を持つ三成、その反面頑なで融通の利かない論理主義者。しかし決して冷酷な人柄ではなく、配下にも領民にも心を使う。物事を論理的に判断するが故に非論理的行動や過ちを嫌う潔癖さ。世俗的物欲から遠い自己抑制型の人間。同じ作者の描いた「播磨灘物語」の官兵衛からすると、多少人間味の部分での面白みには欠けますが、時代を駆け抜け、また翻弄されながらも真正面から挑んだ、溌剌とした人物像が描かれています。NHK大河では敵役として、嫌味な人物としてだけ描かれているのは残念です。

「イザベラ・バードの日本紀行」 イザベラ・バード著 講談社学術文庫全2巻  明治の初めに日本を訪れた、イギリス人女性旅行作家の書です。東京から東北・北海道まで、主街道から外れた、日本人でもあまり経験しない奥地の道を苦労して走破しています。この時代にこのようなルートで外国人女性がひとりで(日本人通訳を1人連れただけで)旅していたとは、とても想像できません。その行動力・好奇心・探究心にはただただ恐れ入るばかりです。そのお蔭で当時の日本・日本人の様子を知る事ができました。日本人の礼儀正しさ、ぼられるという事が無い、外国人女性がひとりで旅しても危険を感じさせない、等々、読んで嬉しくなる表記も多いのですが、顔かたち(醜い)体型(貧相)と手厳しい表現もあります。女史特有の率直な物言いとユーモアでもありますが。特に山間部での旅では、ほとんど裸に近い村民、不衛生な環境、汚れて皮膚病の子供たち、蚤の大群に悩まされての宿泊等、文明開化で賑わう都会とは隔絶した貧しい山村もリアルに描かれます。しかし勤勉な農民の貧しさ、として民衆に寄り添い改革を望む同情を込めた優しさが感じられます。日本近代化の礎として、貴重な旅行記を残して頂いた事に日本人として感謝しています。日本人の知らない日本がありました。特に故郷に近い日光の景観を褒めて頂いた事は嬉しかったです。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード著 講談社学術文庫  「日本紀行」を読み終わり、自然な流れでこちらも読み返したくなりました。数年前に1度読んだ本です。先の日本旅行から10数年後に訪れた朝鮮及び中国(清・満州)での旅行記です。ほとほと困難な旅の好きなお方です。やはり外国人未踏の地へ踏み出し、信じ難いほどの困難な旅にチャレンジしています。時代が流れ、「日本紀行」ではスケッチだったものがこちらでは写真も登場します。文章も読み易く感じます。訳者は同じですので、やはり年の功なのでしょうか。また、日本にとっても激動の時代でした。それが現場を知る第三者の目で描かれている事は興味深いです。「私は日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才にかけたため買わなくてもいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる」 文中に置いて日本批判の文章もあります。全くの日本贔屓ではありません。ただこの段階では、まだ日本は理性的だったのでしょう。この後女史の信頼を裏切ってしまった事は残念です。 またこの本、文中の1部だけを抜粋して嫌韓輩の朝鮮誹謗の道具として使われる事がしばしばですが、実際は異なります。現実を包み隠さず描く女史です。朝鮮の腐敗や貧しさも描かれますが、長所もちゃんと描かれています。

「蒙古の槍」 白石一郎著 文春文庫  買ったきり本棚に忘れていた本です。やはり官兵衛繋がりで、同時代の物語として読み始めました。「島」をテーマにした短編が7編載せられています。表題の「蒙古の槍」は時代が遡り元寇を題材としています。歴史の主役にはなり得ない、小島の老人の物語です。ちょっと泣ける、心に何か重たい石を埋め込まれたような読後感の残る物語です。最初の作品のパンチが重かったので後が少々読み進み辛かったのですが、他作品も面白いです。「巨船」は水軍として活躍した九鬼嘉隆の物語、「関ヶ原」と時代が一致して、司馬作品にも登場する武将ですが、描き方が異なります。短編とはいえ主役となると、人物像に人間味が深くなります。「関ヶ原」では脇役、説明的になりますので。

「コンスタンティノープルの陥落」 塩野七生著 新潮文庫  「レパントの海戦」が面白かったので、順番が後先になってしまいましたが、探してきました。最初訪れた時在庫がなく、代わりに「ローマ人の物語」を買って読み始めてしまいました。文庫で全43冊、大変なものを読み始めてしまいました。しかもこちらの3部作とは内容も異なります。「ローマ人~」の方はかなり”歴史書”に近い書き方になっています。ま、それはそれで面白いのですが。 で「コンスタン~」ですが、1453年のビザンチン帝国首都のコンスタンティノープルの陥落を中心に、戦端までの数年を描いた作品です。「レパント~」ではヴェネツィアの海将バルバリーゴを中心に描いていますが、こちらではヴェネツィアの軍医やフィレンツェの商人、枢機卿、セルビアの指揮官等、数人の立場・目線で描いています。スルタン・マホメッド2世の小姓も歴史の証人として描かれます。いずれも生き残り、後世に現場の模様を伝えた人達なのです。そのそれぞれの記録を基に作者がまとめあげた歴史小説です。書き出しの文章が印象的でした「一都市の陥落が一国家の滅亡につながる例は・・・・・・・コンスタンティノープルは、滅亡の日が明らかであるだけでなく、誕生の日もはっきりしていることでも、珍しい都なのであった」 コンスタンティノープルの陥落は、一文明の終焉に繋がる出来事だったそうです。

「終業式」 姫野カオルコ著 角川文庫  ここ暫く歴史物に偏りがちでしたの、気分転換に別のものを挟みました。今年初めに「昭和の犬」で直木賞を受賞、その時初めて青山学院の卒業生と知りました。私の4期後輩です。読んだ作品「終業式」は、高校時代に始まり、大学・社会人・結婚と続く数人の若者の20年ばかりを、手紙やFAXのみで描いた作品です。時代が被りますので、懐かしい思いも蘇ります。携帯電話の無い時代を共有していますので、「手紙」という現代では古風にも感じられる伝達手段にも違和感はありません。巻末の藤田香織氏の解説に「地の文が一行もなく」と書かれています。確かに作者による説明が全くなく、すべてが謂わば「会話文」です。読み続けて気付いた面白い部分は、書かれたすべてが「本当の事」とは限らない事です。「手紙」をそのまま載せた構成ですので、内容は書き主の都合も含まれています。つまり「嘘」も頻繁に登場するわけです。同じ登場人物が別の人宛に書いた手紙も登場しますので、後々にその「嘘」が読者にも知らされるわけです。また、未投函の手紙も文中では公開されます。そして出さずに廃棄した手紙に限って、真意が書かれているという逆説が存在します。確かに現実にはその通りですね。男女の想いの擦れ違い行き違い、自身の青春を顧みて「ああ、もしかしてこんなこともあったかも知れない」と振り返る読者は大いと思います。リアルでセツナイ物語がそこにありました。

2014年10月15日 (水)

最近読んだ本

半年に1回の不定期テーマです。

「3センチヒールの靴」 谷村志穂著 集英社文庫  どんな作者かも知らず、書店でたまたま手に取ったまま買いました。主人公は20代後半から30代、アラサー世代の女性たちなのでしょうか? 様々な恋愛の形、ちょっとしたエピソードなど、17編の短編が収められてあります。ロマンチックな現代のおとぎ話的なエピソードもあり、リアルで等身大の、あり勝ちと思えるエピソードもあり。適齢期女性たちの願望と現実と、その双方が入れ替わり登場します。作者は私より9歳年下ですので、バブル時代初期に青春を迎えているはずです。そのひと時代のずれが、そのまま私にとっての実感とのずれになっているような感じです。理解はできるけれども沁みない、そんな部分があります。

「史記 武帝紀」 北方謙三 ハルキ文庫全7巻  北方謙三は”ハードボイルド作家”との印象があり、縁の薄い作家でした。最初に読んだのが「楊家将」、これが中々面白くて、続編の「血涙」まで続けて読みました。映画「楊家将(中国映画)」も。その流れで読み始めたのが「史記 武帝記」でした。漢王朝第7代皇帝劉徹を描いたものです。ただし、物語の最初から最後まで続けて登場するのは劉徹ではありますが、劉徹1人を描いた作品ではありません。奴僕の身から大将軍にまで栄達した衛青、西域に派遣され匈奴の捕虜になりながらも使命を果たして立ち戻った張騫、衛青の甥で天才的武将霍去病、そして悲劇の武将李陵、それぞれが主役として、半ば独立した物語として語られます。パート主役となるのは、漢側の人物だけではありません。匈奴側の単于も丁寧に描かれますし、特に匈奴の将軍頭屠は幼少期から登場して匈奴側のパート主役として描かれます。また「史記」の作者司馬遷も、武将達とは異なる目線で同じ舞台に登場します。敵対する勢力の双方から、そしてそれぞれの立場から同じ舞台を眺め・生き・行動します。登場人物それぞれが血の通った生きた人間として描かれますし、総体の群像として生きた時代を描き出します。最初から登場し続けながら準主役的立場に甘んじてきた劉徹が、最後には同じく脇役に徹してきた桑弘羊と共に、ひとりの人間として幕締めを飾ります。最後の2人のやり取りには涙を誘われます。そして最終章には最早、劉徹は登場しません。それぞれ数奇に生きた李陵と蘇武との別れのシーンが、エピローグ・後日談の如くに描かれます。歴史小説は、客観的な冷めた目で書き連ねられるものも多いのですが、北方謙三作品は、生身の人間として描く危うさと魅力とが同居しているように思えます。

「韓国現代史」 文 京洙著 岩波新書  「周縁からの視点で描き出す激動の60年」、序章で李朝末期から日本による植民地時代までを簡潔に記し、解放から2000年初めの盧武鉉政権までの韓国の政治情勢を三章に分けて書いています。この春頃に、「チスル(http://www.u-picc.com/Jiseul/)」という韓国映画を観たのですが、その段階では済州島4・3事件に関しては漠然とした知識しかありませんでした。この本を読んでからでしたら、感じ方も異なっていたかも知れません。事件による死者は25,00030,000人、島の人口の約1割に及びます。事件後日本へ移住した島民も多く、人口が半減してしまった時期もあったそうです。光州事件も同じですが、朝鮮戦争という、国家分断での同じ民族同士での争い・憎しみ、そして不信感が、こういった事件を生んでしまったのかも知れません。意外だったのは、両事件が公に語られ被害者達の名誉回復が比較的最近になってからだった、と言うことです。

「播磨灘物語」 司馬遼太郎著 講談社文庫全4巻  随分以前、おそらく1980年代に読んだ本だったと思います。日本の歴史物小説の中では特に印象に残っている作品です。今回、大河ドラマに合わせて読み返してみました。主人公黒田官兵衛は、戦国物ドラマ等での脇役定番の武将です。読むまでは私も詳しくは知らない人物でした。この作品で魅了されました。軍師は私欲を持ってはいけないと言います。私欲は先を見る目を曇らせる、自身の願望に惑わされて判断を誤る。官兵衛は私欲の少ない人物だったのでしょう。そして最後の最後に、夢を見、欲を持った。その時の判断だけが甘く、夢の実現はみませんでした。格好良くはないけれど、艶やかではないけれど、しぶとく冷めた目で時代を捉え生き抜いた雑草的逞しさと、少し世離れした哲人的な厭世観と、その双方を兼ね備えた人物に思えます。

今回のHNK大河ドラマ「軍師官兵衛」、毎週楽しみにしています。昔々は好きだった大河ドラマ、ここ暫くはあまり見なくなっていました。ホームドラマ的要素が盛り込まれたり、現代的価値観での歪曲解釈による大衆迎合脚本に嫌気の指した部分がありました。以前から「何故官兵衛が大河にならないのか?しっかりした原作もあるのに・・・」と感じていましたので、今回は、制作発表時点から期待して待っていました。期待に違わぬ部分もあり、毎週続けて見ていますが、不満な部分もあります。大河では元々、主人公を美化した脚本で描かれるのが定番です。しかし歴史は良し悪しでは測れませんし、何より、現代とは全く異なる価値観の中にあります。大河も所詮娯楽ドラマではありますので、史実から離れた脚色も致し方ない部分もあると思いますが、「善い人悪い人」での描き方には違和感を感じます。歴史小説でも、主人公が変わり立場が変われば描き方も異なりますが、大河ほどの落差のある作品は少数だと思います。朝鮮出兵での石田光成と官兵衛とのトラブル、同じ作者による「播磨灘物語」と「関ヶ原」と、その両方に同じ場面が登場します。主人公は逆になりますので多少ニュアンスに違いはありますが、大きな違いにはなりません。大河でももうすぐこの時代になります。その場面が描かれるかどうか判りませんが、描かれるとしたら、主人公擁護の詭弁脚色になりそうで、不安を通り越して危惧する気分になっています。「軍師官兵衛」という題名から、官兵衛の姓を「軍師」と勘違いしている視聴者も居るとか居ないとか?歴史に深い興味や知識のない人も見る大河ドラマだからこそ、判りやすくするだけでなく、“歴史の見方”を示す脚本も必要だと思っています。「史記 武帝紀」で描かれているように、漢と匈奴それぞれに生きるための必要があり事情があります。官兵衛を「善」とするために光成を「悪」とする安易な設定は、長い目で見れば、歴史に興味を持つ新たな芽を摘んでしまうように思っています。

2014年4月23日 (水)

最近読んだ本

「菜穂子・楡の家」 堀 辰雄著 新潮文庫  久々に読み返した「風立ちぬ」の流れで買ってしまいました。探せば家の何処かには以前に買った本が有るとは思うのですが・・・。「堀辰雄最高傑作」との記憶はあるのですが、どのような内容だったのか憶えていませんでした。読んでみれば思い出すのですが、若かりし頃に読んだほどの感慨はありません。確かに、「風立ちぬ」に比べて小説らしい小説、単なる切なさだけでなく、ひとが生きて行くための不条理というか、人生の不自由さを感じます。ただ、今となっては、「風立ちぬ」の清新さの方が懐かしく感じます。「楡の家」と、もう1編収められてある「ふるさとびと」は、それぞれ菜穂子以外の登場人物を主人公として別視線から描かれています。交錯し、ずれて行く思惑、その描き方は興味深かったです。3編合わせてひとつの作品と見た方が良いようです。

「楼欄」 井上 靖著 新潮文庫  長編を読み終わった後、たまたま手元に新しい本が無かったので、本棚から取り出して読んだのが井上靖の「真田軍記」でした。戦国の世、歴史の表には残らなかったひと達を描いた作品でした。そんな短編集を読んで思い出したのが、やはり以前に読んだ「楼蘭」でした。これも本棚の何処かにはあるはずなのだけれど見つからず、買ってきてしまいました。平成22年発行の61刷です。時代を超えて読まれている事が判ります。この文庫本には12編の短編が収められています。表題にもなっている「楼蘭」は、漢代中国の西域に実在した城塞国家です。物語は漢の武帝の時代に始まり、漢と匈奴との狭間で翻弄される小国の悲哀が描かれます。故地を離れて移住しなければならなくなり、望郷の思いで過ごす内に時代を経て、城塞は砂に埋もれ帰るべき故地そのものが消滅してしまいます。「真田軍記」同様、歴史的資料の少ない場面での、作者の想像力、時代に生きた人々を描く力の存分に発揮された作品だと思います。他小編もそれぞれ面白かったのですが、「羅刹女国」が特異で印象に残りました。

「早雲の軍配者」 富樫倫太郎著 中公文庫上下巻  NHK大河ドラマ絡みで読んだ黒田官兵衛もの、そのまた流れと、地元「足利学校」が主たる舞台となっている事もあり、買ってみました。風魔(風間)小太郎を主人公にして、北条早雲や曾我冬之助、山本勘助が主たる登場人物となっています。お話としては面白いです。ただこれが”歴史小説”か?となるとちょっと違います。言ってみれば、遠山の金さん同様、”ちゃんばら小説”の部類だと思います。元々、風魔小太郎自体が実在を疑われる人物ですし、曾我冬之助も(モデルが居るのかも知れませんが)実在しませんし、唯一確かに実在した山本勘助もストーリー的には全くのフィクションです。この3人が「足利学校に在学した」との仮定の上で作られたお話です。地元民としては舞台に選んで頂いて嬉しいのですが、根拠の全くない創作です。文体も内容も、時代小説としての重みや先の井上靖作品のような「時代を生きる」リアリズムも感じられません。要は、突飛なアイデアを駆使した、エンターテイメント小説です。舞台となった足利学校に関しては詳しく調べたようです。「足利学校」の存在、それ自体が小説発想の大元になっていたのかも知れません。ただこの小説を読んで、その舞台として足利を訪れた場合、多少の失望はあるかも知れません。現在の足利学校は、すでに学校機能を失った江戸時代以降の姿を復元したもので、学徒3,000人を抱えたと言われる最盛期とは、規模は大きく異なります。ちなみに、後北条氏4代北条氏政の庇護を受けており、足利学校と北条氏、全く関わりが無かったわけではありません。

「物語 朝鮮王朝の滅亡」 金 重明著 岩波新書  在日2世の韓国籍作家による著作ですが、「愛国心やナショナリズムは百害あって一利のない障害物でしかない」との言葉通り、かなり公平な目線で書かれているように感じました。近代以前の朝鮮王朝時代から始まり、「トンイの息子」と、韓国ドラマに当て嵌めた馴染み易い書き出しとなっています。王朝末期の官僚腐敗に繋がる、士林派と勲旧派の争いに始まる党争の歴史を知る上には良い教科書になります。耳慣れない人名が次々と出てきますので、一読で全体を掴むには難しいですが、改革の動きや挫折、欧米列強や日本からの圧力、東学・農民戦争の流れ等、比較的判り易く説明されています。例え最終的に記憶に残るのが一部だけだとしても、一読の価値はあるように思います。最後の、参考文献として載せられた申采浩の執筆した「朝鮮革命宣言」は興味深いものでした。

「源 実朝」 大佛次郎著 六興出版  「本は出会い」、目に付いた時に買っておかないと機会を逸してしまいます。で、まとめ買いしたまま、本棚にそれ切り忘れ去られてしまうものも時としてあります。これもその1冊です。それにしても長々と忘れられていたものです。昭和53年発刊の初版本でした。大佛次郎作品は初めてです。文体がどうも、まどろこしく感じて読み進むのに時間を要しました。多少の、文体の古さを感じる部分もあるのですが、夏目漱石などは読み進むと慣れてしまいますので、古さだけではないように思います。内容も元々、血沸き肉躍る軍記物とは違いますので、よけいに難渋しました。実朝の鬱々とした日々が綴られます。ストーリー的にも、唐船の部分、並行して公暁を主人公として書かれた部分以外は、意外性はありません。実朝と公暁を相対して書き進むことが主題だったのかも知れませんが、それにしては公暁の描き方に人間味が薄く感じられます。

「レパントの海戦」 塩野七生著 新潮文庫  「ローマ人の物語」等、古代イタリアものを得意とする作家です。以前から興味は感じていたのですが、読むのは今回が初作品です。海将バルバリーゴを主人公に、歴史のうねりと各国の利権の対立、そして何より、登場人物たちが生き生きと描かれています。バルバリーゴに惹かれ、その無事生還を祈ってしまいました。また、歴史授業的には、トルコから西欧(特にスペイン)へと、隆盛の移る契機となった海戦、との認識でしたが、長篠の合戦同様、この1戦で途端にひっくり返ったわけではないことも判りました。また、歴史上では(スペインやトルコに比べ)軽く扱われがちな海洋国家ヴェネツィアを主体として描かれたことも新鮮でした。三部作として書かれたそうですが、他の2遍も読んでみたくなりました。

2014年1月 6日 (月)

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」

1年も前から楽しみにしていたTVドラマが始まりました。NHK大河「軍師官兵衛」です。元々が、司馬遼太郎著「播磨灘物語」が好きで、日本の歴史小説では私的ベスト3に入れている作品です。(残りは「関ヶ原」と「風林火山」) 小説題材としては面白い人物像ですので、前々から「何故大河に起用されないのか?」疑問に思っていました。人物知名度の問題なのでしょうが。

この日に備えて、小説を読み返してみようかと思ったのですが、どうせなら別の作者の作品も読んでみようと、2冊、読んでみました。吉川英治の「黒田如水」と火坂雅志の「軍師の門」です。近頃は大河話題に乗っかろうと、官兵衛ものがやたら出版されていますが、話題便乗型の怪しげな小説も多いですが、ま、オーソドックな選択だと思います。

吉川英治の作品は、さすがに王道的歴史小説でした。文体にも貫禄があり、それでいて読み易く、一気呵成に読み進ませてくれます。戦時中の昭和18年に書かれた作品だそうですが、決して古さは感じさせません。信長に使いする小寺家家老職の時代から三木城攻略まで、時代を限って濃密に描いています。一方の火坂本の方は、若者時代から九州転戦までの年月、つまりは官兵衛のほぼ一生を描いています。内容も、現代風に歴史小説としてはやや軽めに、御着城主小寺政職をちゃんばら時代劇的な典型的ダメ殿様的に描いています。最初の竹中半兵衛や秀吉との出会い等も、謂わばNHK大河的でリアル感のない、都合の良過ぎる展開です。面白くはありますが、歴史小説としての醍醐味には欠けるように感じました。多分、NHK大河の方も、火坂作品に近い筋道で展開するのでしょうね。

さて、昨晩の大河ドラマ初日ですが、幼少期から元服までをテンポ良く描きました。出だしとしてはまずまず良かったように思います。昨年の「八重の桜」よりは初日視聴率は悪かったようですが、綾瀬人気と官兵衛の知名度不足とを考えると、当然の結果のようにも思えます。もっとも、作品の質と視聴率とは、往々にして一致しませんが・・・。

TV番組、部屋にいる時間にたまたまやっている番組を見るだけで、特定の番組を目指してみる事はほとんどなくなっています。ま、サッカーの国際試合くらいでしょうか。昨年の「八重の桜」も多少は興味もあったのですが、最初の数回を見たきりでした。野球シーズンが始まるとG等の父母にチャンネル権を取られてしまいます。だからといって、そのために食事時間をずらして自室に引き籠るとか、録画するとかまでの執着心はありませんでした。今年はすこし執着して見てみようと思っているのですが、さてさてどうなりますことか?

大河の後に、民放でやっていた「のぼうの城」も見ました。一昨年、原作も読みましたし映画も映画館で観ました。面白い作品でしたので「もう1回観てもイイカナ」との思いだったのですが、大外れでした! どうしてそうなったのかそう行動したのか、との、”振り”部分をメタメタにカット、粗筋を追うだけの味気ない作品にしてしまっていました。ガッカリです。10分に1回CMは入るし、興ざめでした。あれじゃTV放映しない方がマシですね。あんな作品と思われてしまったのでは、役者も監督も可哀そうです。angry

2018年12月
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